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臺北市孔子廟の歴史 |
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| 孔子廟は中国儒教文化の具体的象徴です。山東曲阜の孔子廟は中国最大で最古の孔子廟として一般によく知られておりますが、これは孔子の故居に始まるもので、二千年の改築と拡張を経て現在の雄大で状麗な規模を備えるに至りました。この山東の孔子廟は、また全国各省の孔子廟のモデルとなっています。明清の時期になると、各地の府県などの都市には、おおむね孔子廟が建てられており、儒学と称えされて地方教育の場としての機能も兼ね備えていました。 |
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| 台北市の孔子廟の創建は、清朝光緒元年(西曆一八七五年)に台湾北部に台北府が設置されたことに始まります。府の中心区域が光緒五年(一八七九年)に建設を開始されたのに伴い、城壁で囲まれた都市の南門付近に文武の廟を建てることになりました。二つの廟はどちらも南を向いており、孔子を奉る文廟は左、關羽を奉る武廟は右に位置しており、これが台北府の孔子廟の始まりとなりました。 |
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| 台北市の孔子廟の創建当初は、当時の台湾兵備道夏献綸と台北知府(知事)陳星聚とが工事の監督に当り、光緒七年(一八八一年)には大成殿、儀門と崇聖祠とが完成しました。翌年、台北の名士たちが寄付を募り、礼門、義路,櫺(れい)星門、泮(はん)池、及び万仞宮牆(しょう)などが建てられ、光緒十年(一八八四年)には相当の規模となりました。 |
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| その後、劉銘伝が台湾巡撫に任じられた時から、毎年定期的に盛大な儀式を催すようになり、台北の文人の重要な行事となりました。光緒一七年(一八九一年)に邵友濂が巡撫を引き継いでからは、福建にまで祭器や礼器の購入に人を派遣し、また礼や音楽の師を招いて、台北で教習を開始しました。 |
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| 光緒二十年(一八九四)年に日清戦争が起り、その結果として台湾は日本に割譲されたのです。翌年、日本軍は台湾の占領を開始し、台湾は日本占領時代が始まりました。当初は、抗日の義軍が次々に蜂起し、日本軍は台北の孔子廟に駐屯したため、孔子とその弟子の位牌の多くは壊され、祭器や楽器などは失われ、建物は次第に荒れ果て、毎年の祭典の儀式も中止されました。 |
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| 光緒三十三年(1907年)、日本人は日本語学校建設のために孔子廟を取り壊し、跡地を利用して第一高等女学校を建設しました、それからほどなくして、日本語学校の内部に小さな社が建てられ、孔子とその弟子の聖人の位牌が改めて祭られるようになり、毎年孔子生誕の日には社が開けられ、学校の先生と学生により祭礼が行われるようになったのでした。 |
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| 中華民国六年(一九一七年)一月、台北の詩人節団体瀛社と大正協会のメンバーとが孔子を祭る崇聖会を組織し、日本人木村匠が会長、台北の名士顏雲年、李景盛が副会長に選出されました。これから毎年旧暦八月二十七日の孔子生誕の日には、日本語学校の社から孔子の位牌をお迎えし、大稲埕学校や蓬萊女子学校、または万華の龍山寺、大龍峒の保安宮などで祭典を執りうようになりました。無論、主だった人びとは孔子廟の再建を主張しましたが、財政面の問題から再建を進すすめることができませんでした。 |
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| 民国十四年(一九二五年)、台北の名士黄贊鈞、陳培根、辜顕栄などが協議し、官吏、富商など二百人余りを招いて集会を開き、孔子廟の規模や寄付の募集方法などを決議しました。二月には台北聖廟建設準備会が設立され、寄付募集と建設の事務を取ることになりました。失われて十数年の孔子廟が、ここについに再建されることになったのです。三月、大龍峒の地主陳培根は田地二千坪余りを寄付、辜顕栄も土地千坪余り、また別に田地千坪余りの購入資金を提供し、これらを合計した五千坪が孔子廟再建のための建設用地となりました。 |
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| 当時は、台湾には孔子廟建設の経験がなく、大陸から経験のある大工を招くことになりました。それより以前、民国九年(一九二〇年)には福建省泉州の名大工王益順が台北に招かれて、萬華龍山寺などの建設に携わり、多くの賛賞を得ていました。そこで、台北の孔子廟建設にも王益順が総督として招かれ、設計と建築を担当することになったのです。 |
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| 王益順は泉州恵安県渓底村の人で、清朝末期福建でもっとも有名な宮大工でした。廈門の南普陀寺もその手になるものですが、孔子廟建設に際しては、南中国建築のエッセンスを注ぎ込み表現したといえます。今日私たちが目にする台北の孔子廟は、典型的な福建南部の建築様式であるといえるでしょう。 |
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| 台北の孔子廟建設開始の時、占いを見る風水師の鄭孝廉を招いて、地相を見てから、南北の方位を定めました。継いで民国十六年(一九二七年)に着工し、十七年(一九二八年)四月には大成殿の上棟式を行うことができ、さらに儀門も着工しました。十八年(一九二九年)大成殿が落成し、続く十九年(一九三〇年)には崇聖祠、儀門及び東廡、西廡(ぶ)が相次いで完成し、聖人孔子の位牌も新たに作られることになり、同年八月二十七日、中断して三十年余りになる孔子生誕の記念祭典が、ついに執り行われることになったのです。 |
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| 大成殿、儀門、崇聖祠三つの建物と東廡、西廡が落成してからは、寄付が滞りがちとなり、財政難からその後の建設工事は中断されました。民国二十四年(一九三五年)、台北の名士黄贊鈞、辜顯栄などが工事の再開を提案し、再び募金が始められ、材料を購入し、大工を集め始めましたが、この時には本来の設計者である王益順は泉州で逝去した後で、工事はやむなく台湾の大工に任せることになりました。まず、櫺星門から着工され、礼門、義路、黌門、泮宮、泮池、万仞宮牆と再建が続きました。民国二十八年(一九三九年)にはすべての工事が終わり、現在見られる規模を備えるようになったのです。前後二回にわたる募金では二十六万元余りを集め、総面積は四千一百六十八坪、建坪は一千六百坪です。 |
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完成後数年で第二次世界大戦が勃発し、日本人は中国の古代豊かな祭典を禁止し、代わりに日本の靖国神社の祭礼を強制しました。しかし、これも一時的なことで、民国三十四年(一九四五年)台湾は中国に戻ったのです。
戦後の始あは混乱が続き、祭典は中止されましたが、翌三十五年(一九四六年)には孔子生誕の記念祭典復活の為に、官民が台北崇聖会の再興を協議し、台北市長游彌堅が主任委員、教育局長黄啟瑞及び辜振甫とが副主任委員に選出され、毎年の祭典を主催することになりました。民国三十九年(一九五〇年)は孔子生誕二千五百記念に当たり、特に盛大に祭典が催され、当時の総統蔣介石は特に自ら筆を執り「有教無類」の額を寄贈されました。 |
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| 民国四十年(一九五一年)には関係者が台北市孔子廟管理委員会を組織し、台北市長の吳三連が主任委員に選ばれ、通常の事務及び毎年の祭典などを行うことになりました。その後、民国六十年(一九七一年)になり、民間の寄付により建設されたこの台北市孔子廟は、建設に功労があった台北名士の跡継ぎである辜振甫及び陳錫慶とが全体を代表して、国に寄贈されたのです。孔子の尊重は国の基本となる大事であると言うのが、その寄贈の理由でした。これを受けて、行政院(内閣に当る)が台北市政府に移管し、翌六十年(一九七二年)七月、にな「台北市孔子廟管理委員会」が設にうれ、民政局に属することになりました。 |
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